アレサ・フランクリンがすごい事は知っていても、どうすごいのかまとめたサイトが少ないと思い、まとめました!!

ソウル・ミュージック 歌手

Aretha Franklin, アレサ・フランクリン

『ソウルの女王』『歌姫の中の歌姫』はどうやって誕生したのか?

『ソウルの女王』と日本でもよく聞くアレサ・フランクリン。しかし、偉大な点は強調されても、 いったいどんなシンガーなのかは明らかになっていない気がします。そこで、アレサ・フランクリンが どういう歌手かをまとめてみました。


そもそも父親からして偉大だった!!

アレサ・フランクリンは1942年3月25日に南部のメンフィスで生まれました。
父親は牧師 (宣教師) のC・L・フランクリン、母親はゴスペル歌手のバーバラ・シガーズ・フランクリンです。 特に父親のC・L・フランクリン、ただの牧師ではなく、すごい人だったんです!! 『この親にしてこの子あり』 という様子が納得できます。

C・L・フランクリンはどんな人物だったのでしょうか?
父のC・L・フランクリンは16歳の時に説教者になり、黒人教会を回る巡回説教者として活動していました。 南部メンフィスのニュー・セーラム・バプテスト教会に定着した後、『より多くの聴衆に自分の声を届ける為、より大きな教会を探して』 アレサ誕生後2年後 ('44年: 末っ子のキャロリン誕生後) 北部のニューヨーク州バッファローに一家で移住し、2年後('46年) に デトロイトに移り、ニュー・ベセル・バプテスト教会を建てて主任牧師として活動しました。
ニュー・ベセル教会における務めの傍ら、日曜日にはラジオを通じて説教の放送も行い、'40年代後半から'50年代にかけて フランクリン牧師の名声は高まり、全米各地で説教をおこなうようにもなりました。フランクリン牧師の声は「100万ドルの声」と評され、 初めてレコードに説教を録音した牧師 (の1人) としても有名です。また、素晴らしい歌声も説教と同じくらいによく知られていました。
フランクリン師は牧師としての仕事に加え、'50年代から'60年代にかけては公民権運動に関わり、デトロイトにおける全米自動車労働組合 (UAW)の黒人労働者に対する差別を撤廃させるために尽力しました。

一方、母親のバーバラ・シガーズ・フランクリンはマヘリア・ジャクソンが『全米で最も優れたゴスペル歌手のひとり』と称賛するほど 優れたシンガーでした。結婚後のバーバラは妻や母としての役割を優先させていましたが、教会における音楽行事には積極的に 参加していました。アレサ自身の才能は両親譲りであったことがわかります。


母親は家族を捨てて家出したのではない

アレサが6歳の時、バーバラは家を出て行き、ニューヨーク州バッファローで暮らしました。
『家族を捨てた母親』 というイメージがあるようですが、実際は違うようです。
バーバラがフランクリン師と別居に至ったのは、むしろフランクリン師の不貞行為が原因で、'40年には、メンフィスの信徒で当時13歳の少女に 子供をを生ませるという事件も起きました。バーバラとしては我慢を重ねた末の決断だったと思いますが、離婚はしませんでした。
バーバラ・フランクリンは子どもたちと会うために度々デトロイトに戻り、子どもたちも夏休みにはバッファローを訪れ、母親の家に 泊まっていました。バーバラは、'52年3月7日にバッファローで心臓発作により、34歳で亡くなっています。


父の交友関係の中で更に才能が磨かれた

C・L・フランクリン牧師は'50年代にはアレサを連れて講演と音楽の旅に出かけていましたが、その中で多くのゴスペル・シンガーと 交流を育みました。マヘリア・ジャンクソンやクララ・ワード、ジェイムス・クリーヴランドなどがフランクリン家を訪れ、 歌を歌う環境で育ったため、アレサは才能あふれる歌手の歌声をお手本にして育ったわけです。
音楽に関して、フランクリン牧師はそれほど厳格ではなく、アレサはブルース・R&B・ゴスペルを聴いて育ちました。この点は、 クラーク・シスターズの母 (ドクター・マティ・モス) が娘たちにゴスペル以外を禁じたのとは異なります。


マネージャーは父 初契約は父のコネ?

10歳の時に父の教会で歌ったのが最初で、アレサは14歳で初めてレコーディングをしました。父のフランクリンは娘の音楽への情熱を応援し、 マネージャーも務めていました。(アレサが結婚するまでマネージャーを継続)
アレサの最初のアルバム『Songs Of Faith』はJVBから発売されましたが、これはフランクリン師が自分の説教レコードをJVBから発売していた 為で、アレサの最初のレコード契約は父親のコネも関係していました! (もちろん才能は本物です)
その後アレサが18歳で世俗音楽に転向する際、いくつかのレーベルで争奪戦が起きました。その一つにモータウンも入っていましたが、 アレサのマネージャーも務めていたフランクリン牧師は『モータウンではアレサ, アーマの才能を広く届けるにはローカルすぎる』と 断っていました。


世俗転向、ジャズ路線不発

アレサは元々の才能も確かですが、トレーニングによって才能を磨いています。18歳の時に高校を中退するとニューヨークに行き、 本格的なヴォーカル・トレーニングを受けています。この頃アレサは世俗音楽に興味を持ち出しますが、フランクリン師は寛容で、 デモを録音する時にも付き添っていく程でした。
コロンビアから'61年にデビューした時、レーベルの考えはジャズ〜ポピュラー路線で、ゴスペル唱法は万人受け (特に白人) しないので 控えめ (むしろ隠す?) にする方針でした。アレサも'64年にダイナ・ワシントンへのトリビュート盤を発表するなど、ジャズ路線を 追求していました。残念ながらコロンビアでは大きな成果が出ず、歌手としてのブレイクは'66年のアトランティック移籍まで待つことに なります。


移籍してソウル路線でブレイク

アトランティック副社長のジェリー・ウェクスラーはアレサの14歳の時のレコード『Songs Of Faith』でのゴスペルが気になっていて、 アレサがコロンビアから契約を打ち切られたと聞き、'66年10月に契約しました。この時のアレサは24歳だったので、ジェリー・ウェクスラーは 10年待った訳です。移り変わりの激しい現代と比べると、何とも気が長いように感じます。
アトランティックでソウル路線に変更したアレサは、強みであるゴスペル歌唱を活かしてヒットを連発し、『ソウルの女王』としての 評価を得ます。中でも'72年のゴスペル・アルバム 『Amazing Grace』 は200万枚以上売れ、アレサ最大のヒット作となったどころか、 『最も売れたゴスペル・アルバム』として認定されています。40年以上経った現在でもまだ記録が破られていない点がすごいです!!


姉妹もシンガーだった

アレサの姉妹もシンガーで、姉のアーマと妹のキャロリンがいます。
姉のアーマ('38-02)は'68年に録音した『Piece Of My Heart』でグラミー賞の新人賞にノミネートされましたが、その後は 大きな成功は収められませんでした。アレサのバック・コーラスをしながらソロ・アルバム発表のチャンスを探しましたが、 '70年代半ばに音楽業界を離れました。

妹のキャロリン('44-'88)は1963年に最初のレコーディングを経験した後、歌手として活動しますがアレサのような大成功は収められませんでした。 ソングライターの仕事も始めたキャロリンは、アリサと一緒に歌った「Ain't No Way」('68年)がヒットしたり、アレサのアルバムにも 曲を提供しました『Spirit In The Dark』('70), 『You』('75)など。キャロリンは'76年に音楽業界から引退しています。


飛行機嫌いになったきっかけ

アレサ・フランクリンは、『飛行機嫌い = 移動はバス = 海外公演しない』 ことも知られています。
'67年にオーティス・レディングが飛行機事故で死亡してしまったのがきっかけで、当時のアレサはサザン・ソウル界で オーティスと人気を二分する程に成功していた為、そのオーティスが死亡してしまった事が大きく影響したようです。

実際は、その後も何度か乗っていたようで、NYタイムズ (2007年11月4日) では
『1983年に、アトランタとデトロイト間の飛行機に乗ったんだけど乱気流で怖かった。だから、あれ以来飛行機には乗ってないわ。でも、 キリストに由緒あるパリやエジプト(特に中東)に行きたいって思ってるから、また飛行機に乗ろうって思ってるの!』
という記事が載っています。
また、海外公演は'77年(フランス)、03年(ロンドン) を行っています。但しやはりごくわずかなのは確かです。

バスで移動中、どうやって過ごしているのでしょうか?
『最近で言えば、私が開いているヨットパーティーへの招待状を記述し終えるつもりです、そして、私は少し予行演習するつもり。 あとはやるべき事のリストをチェックしたり。』とタイム誌 (2010年6月) で話しています。


ディスコブームで一時人気低下

'70年代後半にディスコブームの時は、アレサも影響を受けてポップヒットは減ってしまいました。 (R&Bチャートでのヒットは継続) 姉妹のアーマ, キャロリンが'70年代後半に引退したのもディスコ人気を考えると納得できます。
この時期、従来のソウル・ミュージックを歌っていた歌手は軒並みディスコ歌手に押され、以前よりセールスは低下しました。 ポップチャートで活躍したのはドナ・サマーやグロリア・ゲイナーで、特にドナの活躍ぶりは『ドナ・サマー一人勝ち』と言われたほどでした。
しかし、'80年代に入りディスコ音楽が下火になると、ほとんどのディスコ歌手はブーム終了と共に姿を見かけなくなってしまい、 『流行サウンドにハマりすぎて、流行と共に消えていく』アーティストの運命が感じられます。


アリスタに移籍、クロスオーバー路線で復活

'70年代後半にはヒットに恵まれない時期が続きましたが、'80年にクライヴ・デイヴィスがアリスタを立ち上げた時に請われて移籍し、 ポップ (ロック) とのクロスオーバー路線で人気を復活させました。

アレサ復活に関わったプロデューサーは2人いて、ルーサー・ヴァンドロスとナラダ・マイケル・ウォルデンがいます。 特にルーサー・ヴァンドロスとの仲は長く続き、『ルーサー 〜 アレサ 〜 アニタ・ベイカーの三すくみ確執関係』と言われた仲も、 ルーサーが脳卒中で倒れた時には、アレサがルーサーの為のミサを開いたほどに変わりました。

この好調ぶりは'80年代を通じて続き、'91年に『What You See Is What You Sweat』を発表した時は、日本盤のキャッチコピーに 「'90年代『も』アレサが仕切る!!」と書かれていた事からもわかります。'91年の時点でアレサは49歳ですが、50歳近くでも一線で 活躍できるあたり、アメリカのエンターテイメント界の層の厚さを感じます。


女性初のロック殿堂入り

'87年には女性で初のロックの殿堂入りを果たしました。デビュー後25年が条件で、アレサは'61年デビューなので資格を得たのは '86年です。つまり資格獲得後にすぐ殿堂入りしたわけで、ロック〜ポピュラー音楽へのアレサの貢献ぶりがわかります。
この『殿堂』はロック以外にもR&B, ゴスペルがあり、アレサはどちらの殿堂にも選ばれています。(2011年にゴスペル殿堂, 2012年にR&B殿堂)

他の受賞歴からもアレサの特別ぶりはよくわかり、グラミー賞は21回受賞していて女性最多です。
2005年にはアメリカ合衆国 自由勲章にも選ばれ、これはアメリカで最も栄誉ある勲章で、ブッシュ大統領から受け取りました。 大統領は、「当時アメリカ人は、アレサの声とスタイルに感銘した。そして、アレサの母バーバラや 父C. L. は、若い頃 からアーティストとしてアレサをサポートし、そして、成功し、深いキャラクター、愛すべき心である女性としてアレサを導いた。」 とコメントしました。

その他、2008年にRolling Stone誌で『史上最高のシンガー』に選ばれた他、2010年にはアポロシアターの殿堂入りもしました


ベスト盤発売、流行サウンドで帰還

'94年にはアリスタ時代 ('80年〜'94年) のベスト盤が発売されました。この後しばらくはオリジナル・アルバムが出なかったため、 『流行歌手』としてのアレサは'94年で一区切りの印象があります。過去の未発表曲や、レコード時代のアルバムをCDとして再発売するのも この後から増えた気がします。
尚、アレサの未発表曲は今もどこかで保管されているはずですが、アトランティックの倉庫は1978年2月8日に火災に遭っており、アレサや チャールス・ミンガスやレイ・チャールズの様なアーティストのアウトテイクを含む5000巻以上のセッションテープを失っていたそうです。 音質が良かったけれど、当時のLPレコードでは収録しきれなかった為にお蔵入りしていた曲がほとんどだった為、惜しいです。

'99年には8年振りのアルバム『A Rose Is Still A Rose』を発表しました。『バラの花は今でも綺麗よ!!』と、カムバックの意味あいを 感じさせるこの作品では、ディディ (パフ・ダディ), ジャーメイン・デュプリ, ローリン・ヒルといった'90年代R&Bのプロデューサー を起用し、見事'90年代R&Bを歌っています。アルバムも成功し、全米レコード協会からゴールド認定 (50万枚) されました。


ソウル・ゴスペルに留まらない音楽スタイル

『ソウルの女王』と枕詞が付くアレサですが、音楽スタイルはソウル/R&B以外にも幅広く渡っています。
14歳でゴスペル・アルバムを発表し、コロンビア時代はジャズ〜ポピュラー曲を歌っていた事は広く知られていますが、 '80年代のアリスタ時代はファンクやロックともクロスオーバーしていました。'80年代後半は音楽業界全体がファンク・ソウル〜ロックの 間でクロスオーバーする傾向があったこともありますが、アレサ本人の好みとしてはオペラ好きも挙げられます。

アレサは'98年のグラミー賞オープニングにてパヴァロッティの代役として「Nessun Dorma (誰も寝てはならぬ)」を歌いました。
パヴァロッティが2008年に亡くなった時のインタビュー (CNN) では、『私はパヴァロッティの大ファンだった。音楽も声もパフォーマンスもね。 たくさんの友達の中でも、リスペクトしていたわ。1998年のグラミーの出演のオファーは直接電話をもらったの。彼が体調を悪くしていたからね。 パフォーマンス後にモデナ(イタリア)で共演したいって言ってくれて、他のアーティストなんかも一緒にね。 プライベートプレーンまで用意してくれるってことだったけど、ご存知の通り(笑) *注 飛行機嫌いの為」

ジャンルを超え、とにかく「歌がうまい!!」としか表現しようが無い程の上手さの背景にはこのような事がありました。


アリスタ倒産とレーベル立ち上げ

アレサの2000年代最初のアルバムは2003年の『So Damn Happy』でした。
「自身のルーツであるソウル・ミュージックに立ち返る」という事前情報通り、前作から一転したソウル曲が収録されていて、 アレサ自身もプロデュースに関わっています。

この年、アレサは自身初となるレコード会社関連のトラブルに巻き込まれてしまいました。アリスタ・レコードの倒産です。 アリスタは'80年にクライヴ・デイヴィスが興し、アレサは当初から所属していましたが、社長はL.A.リードに交代していました。
2003年1月にL.A.リードが辞任した後、アリスタの倒産が明らかになります。アレサの希望はクライヴ・デイヴィスとの関係を 続ける事でしたが、クライヴがアリスタを買収したBMG社長になった事で、BMG傘下の新生アリスタに残る事になりました。
一方、自身のレーベル立ち上げも検討し、2004年にはAretha's Records立ち上げを発表しました。
『ちょっと時間がかかっちゃったけど、そろそろよね。私はしっかり生きてきたし、多くを学び、十分に分かったの。私たちは、大企業から インターネットや小売配給を組み合わせていくつもりよ。私の2人の息子は、きっと唯一のレーベル所属アーティストになるでしょう。そして、 ついに私の心にあったフランクリン家のプロジェクトをレコーディングできるようになると思うわ。』

この時はアリスタとの協力関係は続けるものの、次のアルバムは自身のレーベルから発売する事が発表されました。
アリスタとはこの後デュエットアルバムの企画が持ち上がり、2008年に『Jewels In The Crown』を発表した後、28年に渡った 契約は解消されています。

2011年12月には、若手シンガー募集のため、17〜35歳を対象としてデモテープを募集しました。


ルーサーヴァンドロス、その他の確執

多くのシンガーから尊敬を集めるアレサ・フランクリンですが、それでも他の歌手との確執はありました。
最も有名なものでは、『アレサ 〜 ルーサー 〜 アニタ・ベイカー』が挙げられます。
'80年代、この3人の『お互いがお互いを嫌い』は有名でした。特にアニタとルーサーの関係は強烈で、ルーサーが2004年に亡くなった際の コメントを求められても、アニタは 『別に』 とそっけなく答えた程でした。

アレサとルーサーの関係ですが、ルーサーがアレサのアルバムにプロデュースで参加した事もあり、徐々に関係は改善されました。 2003年にルーサーが脳卒中で倒れ、闘病していた時、アレサはデトロイトの教会でトリビュート・パフォーマンスをデトロイトのリトル・ロック ・バプテスト教会で企画・開催しました。
ルーサーも2003年のアレサのツアー衣裳をデザインしていました。

ナタリー・コールとの確執関係もありました。後年、ナタリーはインタビューで自身のバックグラウンドはジャズでアレサのような ゴスペルのバックグラウンドとは違い、憧れていた事を話しています。

また、エタ・ジェームズがアレサのスタイルをまねたとして、アレサのバックシンガー達でエタのチームに殴り込みにいった事件も ありますが、アレサ本人は関係していません。

2008年のグラミー賞で、ビヨンセがティナ・ターナーを『クイーン』と紹介した時、『クイーンは私で、1人だけよ!!』と立腹したと 伝えられました。ただし、2013年のビヨンセの口パク騒動の時は、ビヨンセを擁護するコメントをしています。


アレサにもあった! 口パク騒動

2013年のオバマ大統領就任式の時にビヨンセが口パクだった騒動の時、アレサは 『あの寒さなら録音しておくのも一つの方法』 とビヨンセを 擁護しましたが、アレサにも口パク騒動はあります。
特に、アレサの場合はアドリブが上手すぎて、同じ歌い方は二度とできない為、録音テープに合わせて歌おうとするとすぐに わかってしまうと言われています。

2004年6月15日に行われたNBA ピストンズのホーム最終戦にて、アレサは国家斉唱をしましたが、これが口パクだという騒動になりました。 TV中継での回線上のトラブルと説明もされましたが、それにしてはかなり違和感がある程の口パクだったようです。
最終的に番組のプロデューサーが「我々は、昨年アレサの自宅(ポーチ)でアメリカ国家のヴォーカルを録音した」とデトロイトの地元誌に 語りました。その時の音源が、15日のNBAの国家斉唱でそのまま流されたようですが、さすがに直後の6月26日にタイムズスクエアで行われた ライブでは、アレサは生で歌いました。
2006年のスーパーボウル出演前のインタビューでも、『絶対生で歌うわ!!』と繰り返し強調しています。

ただし、この後2009年12月2日にロッカフェラセンターで、毎年恒例のクリスマスツリー点灯式において、アレサはオープニングに登場し、 「Joy To The World」を多数クワイアと共にパフォーマンスしましたが、明らかな口パクを指摘されています。天候が悪くて傘をさしながら 歌う状況で、事前録音を使っても仕方ない状況だと思います。


体調不安説と謎の手術

2003年頃からアレサの体調不安説が出てきて、『CDは出すけどツアーはしない』発言も拍車をかけました。 実際、2003年のツアーは『ラスト・ツアー』と言われていた程です。
ツアーは2004年以降も開催されましたが、体重増加による健康不安説はその後も続きました。 2004年3月に入院をしましたが、これは抗生物質に対するアレルギー反応だと後でわかりました。

アレサの体重が増え始めたのは'90年代前半からで、禁煙したのがきっかけでした。 ダイエットについては、努力した事をいくつかのインタビューで話しています。
2005年のYahoo!のインタビューではルーサー・ヴァンドロスを例に挙げ、
「ルーサーは体重の激減・激太りに悩まされ、結果若くして亡くなってしまい、この様な事はビジネス的にも良くない。 私は「ソウル・フードの女王」というくらいに、美味しそうなものがあれば欲求に勝てずにいた・・・今後は全てのサイクルを改善する」 趣旨のコメントをしました。

2006年のLA Canyon Newsのインタビューではダイエットについて、
「長い間、私は私を応援してくれる皆さんが望む様に色々努力してきたけど辛かった。私を信じて欲しいの、とっても辛いわ。 私自身を抑えることは大きい挑戦でした。正直言って、すごい痛みだったわ。聴衆を喜ばせるためのヨーヨーダイエット(体重が急増・急減する 繰り返しのダイエット)は自分自身を惨めにするだけだもの。」 「私は不幸せになっていくことを少しずつ悟ったわ。餓死することは手に 負えなくて、再び前の自分に戻ることを決めたの。気持ちのバランスを保って食事を行い、そして何の妨げもなく 皆さんが私の歌を聴きにきて くれるのはとても気持ちがよいわ。」
と、ありのままの自分を保つことの大切さを話しています。なお、2006年には全10公演のツアーを開催しました。

2010年8月にはイベントでステージから落ちた際、肋骨を折ってしまう怪我で入院しましたが、その後 肋骨と違う痛みを感じて病院に行った所、医者から『すべての予定をキャンセルして入院するように』言われ、 2010年10月〜2011年4月まで休養する発表をしました。

具体的な症状が明らかにされなかった為、末期の膵臓ガンとも言われましたが、12月に手術が行われ、順調な回復も伝えられました。 手術後は38Kgも体重が落ちた姿が公開され、「胃バイパス手術を受けたのでは?」とも言われましたが、アレサ本人が「医者に寿命が15〜20年 伸びたと言われた」「ひどい痛みを感じて病院に行ったら、入院する事になった」と話していて、何らかの健康問題があった事は想像できます。


初めてのクリスマス・アルバム

アレサ・フランクリンがクリスマス・アルバムを発表したのは意外に近年で、2008年でした。長いキャリアがあるのに、今まで発表 しなかったのが不思議です。『クリスマス・アルバムを出すのはスターの証』とも言われ、アレサも検討したと思いますが、2000年以降は CD不況の影響も受け、クリスマス・アルバムを出しても売れないとスタッフ側が考えていたようです。

結局、この『This Christmas』は大手ディスカウント店のみの限定販売で最初は発売され、一般に販売されるのはクリスマス直前になりました。


アレサは現代R&Bシーンをどう見ている?

2008年6月15日発売の“Black Music Month”の中で、
「ある時、ヒップホップ歌手がR&Bの将来の担い手になってしまうのか…と考えさせられたことがあったわ。でも、今はアッシャー, アンソニー ・ハミルトン, ファンテイジア, クリス・ブラウン, ラヒーム・デヴォーン, エリカ・バドゥなどのアーティストの音楽は、手入れが生き届いて いて、元気で、私は本当に安心したわ。ブラック・ミュージック・マンスは、私たちが抱えている豊かな音楽の財産を思い出させてくれるの。 サラ・ヴォーン, エラ・フィッツェラルド, サム・クック, ルース・ブラウン, クローバーズ, ジャッキー・ウィルソン, ジョニー・テイラー, クライド・マックファッター, ザ・ムーングロウズ, ハンク・バラード&ミッドナイターズ, そしてドリフターズなどのアーティストなどを 通して、異なる世代に橋渡しをしてくれている。だから、これを続けて欲しい。訴え続けて欲しい」
と話しています

ヒッブホッブに関してはグラディス・ナイトが否定的な発言をした様に、アレサやグラディス・ナイトの世代から見たヒップホップと、 アンジー・ストーンやトニ・ブラクストン (『私もヒップホップ世代』とコメント) 達の世代から見たヒップホップは違う印象かもしれません


美しい声を保つ秘訣は禁煙と食生活?

アレサは50年以上歌手として活動していますが、どうやって声を保っているのでしょうか?
'90年代以降は禁煙していますが、これは大きな効果があるようです。
タイム誌でのインタビュー記事で、食生活も注意している事を明かしました。(2010年6月)
「5年前に声の変化に気付いて、医師に相談したの。そしたら、酸の逆流を増加させていたので、食べ物を変えることになったの。 例えばスパイシーなものだったりチョコレート。でも一番はコカコーラを控える事だった。あとは部屋の向こうにいる人に対して大声で 話さなくなった。至近距離でしか話さなくなったわ。」


7年の期間を経てアルバムを発表

2011年の『A Woman Falling Out OF Love』は、2004年のレーベル立ち上げ時に発表してから7年後、遂に発売されました。 当初はデュエット・アルバムを制作するついでに生まれたアイデアで、デュエット企画が優先された事、その後の2010年〜2011年年に渡る 入院で制作が止まってしまったことで発表が遅れてしまいました。実際、2008年のグラミー賞受賞式の後、制作は再開されていたようです。

しかし、途中クリスマス・アルバム(2008年)制作を優先した為に、『A Woman Falling Out OF Love』は更に遅れました。
2009年6月にも発売との情報もありましたが、実際に完成してリスニング・パーティーを開いたのは2010年の秋でした。リリースされたのは 2011年で、オリジナル・アルバムとしては実に8年振りでした。テレビショッビングのQVCとウォルマート限定で発売され、その後一般小売店 でも発売されました。

アルバムについてアレサは
「このアルバムの私の写真をよくご覧なさい。恋をしているときのあなたはこんな風に見えているのよ。彼からの電話を待って 電話機のとなりになんか座ってちゃだめよ。歌詞をよく聴いてごらんなさい、いいアドバイスになると思うわ。楽しんで!」
と話しています。


二転三転どうなる!? アレサ・フランクリン伝記映画

'99年にアレサは自伝『Aretha : From These Roots』を出版しましたが、この映画化の企画が2000年代後半から持ち上がっています。
最初はブロードウェイでのミュージカル化でした。2005年8月にはアレサがブロードウェイと接点を持ち、台本がある事が明らかになり、 何かの企画が進んでいる事が伝わりました。

2007年6月には地元のデトロイトでオーディションが開かれ、アレサも審査員として参加しました。 但しこの時点でアレサ役にジェニファー・ハドソンが挙がっていたので、ジェニファーで確定していたのかはわかりません。
「ジェニファー・ハドソンで決定したわけじゃないけど、彼女は台本を読みに来たわ。ハル・ベリーも興味あるしファンテイジアもね。 すべてが実現することを考えると、とても刺激的よね」

2007年11月には暗礁に乗り上げている事がわかりました。
『実はハリウッドに断られてしまって…。他にも有名な女性はいるって事でね、失望したわ。でもテレビドラマの話があって、 詳細はこれから決めていこうと思うの。慎重に考えていて、500人オーディションしたけどそこから1名を決定したわ。』

2008年12月には、スモーキー役にテレンス・ハワードを指名しました。

2010年の年末には、カレン・クラーク・シェアードが主役に抜擢されたと報じられてました。
しかし2011年1月のWendy Williams Showでは、やはりハル・ベリー起用に意欲を見せ、まだまだ流動的です。 ハル・ベリーは「数年前からオファーをもらっているの。でも、歌のうまい女優だったら良かったけど・・・」と回答し、 やはり断る姿勢を見せています。どうやらアレサは美人女優が希望らしく、他の候補にニア・ロング, ケリー・ワシントン を挙げていました。

アレサの伝記映画への出演をやんわり拒んだハル・ベリー。しかし2011年2月にアレサは今度は『The Wendy Williasm Show』に手紙を送り 「口パクでも彼女に演じてもらいたい」と強調。司会のウェンディは「私はジェニファー・ハドソン, クイーン・ラテイファなんかが良いと 思うわ」とコメントしました。ハル・ベリーへのこだわり、相当なものです!!

2011年3月の時点では監督はテイラー・ハックフォードに決め、ハル・ベリーは主演候補から外し、ジェニファー・ハドソンかファンテイジアに 絞ってきているとコメントしました。(Wendy Williams Show) ジェニファー復活は痩せたからでしょうか? ファンテイジアも入っているので、 歌唱力で選んだからからもしれません。

2012年の3月には、誕生日パーティーの席上で新作をレコーディングすることが発表されましたが、同時に映画製作の一時中断が発表ました。 ただしその時、主演はハル・ベリーではなく、オードラ・マクドナルドを採用することがパーフェクトな選択であることとアレサは コメントしました。今度は女優に絞ったのでしょうか?
しかし、ハル・ベリーの事は簡単にあきらめたわけでは無かったようです。いとこ役でも良いという代替案にて再オファーしたいという 情報が2012年7月に出ました。ただし、アレサは多忙のため伝記映画の製作にとりかかれていないようです。

アレサ役は誰になるのか? そもそも制作が進むのか? 今後も気になります!!


再婚と解消発表は6年前にもあった!!

アレサは最後の結婚後はプロデューサーのウィリー・ウィルカーソンと交際関係を続けてきましたが、2012年1月には婚約を発表しました。 しかし、3週間後には以下のメッセージを発表して解消しました。
「ウィルと私には、まだ熟慮しなければならないことが沢山あり、少し急ぎすぎたと判断をし、現時点での挙式はなくなりました。 個人的かつデリケートな問題なので、今後、私たち2人がこの件について語ることは一切ございません。皆さまのお心づかいに感謝しています」

実はこの2人の婚約話は2007年にもおこり、ニュースにもなりました。結婚は2007年7月に予定されていて、結婚に向けてアレサが ダイエットする様子もインタビューで明らかになっていました。

アレサは10代の頃に未婚の母となり、'60年中盤にテッド・ホワイトと結婚しました。('70年に離婚) '77年にグリーン・ターマンと結婚し、 '83年に離婚しました。現在アレサには5人の子供がいます。アレサの両親は亡くなっており、兄妹もアレサ以外全員亡くなっています。


新アルバム制作

2012年3月、自身の70歳の誕生日パーティの席上で、アレサはクライヴ・ディヴィスと再び契約した事、新アルバム制作を発表しました。 同年秋からレコーディングを始める予定でしたが、ベイビーフェイスの母が亡くなったことで開始が遅れているようです。
アルバムのコンセプトは 「素晴らしいディーバたちの代表曲を、あの素晴らしい国宝級の歌声でカバーする」(クライヴ・ディヴイス) のようで、カバー・アルバムの企画のようです。今回はホイットニー・ヒューストン, アリシア・キーズ, アデル, ビリー・ホリディ, ダイナ・ワシントンなど、アレサが新旧ディーヴァに敬意を払い、ヒット曲をカヴァーしていく情報が流れています。


アメリカン・アイドル

アレサはアメリカン・アイドルなどのオーディション番組出演に意欲を示し、『私やグラデイス・ナイト, パティ・ラベル, ナタリー・コールの ようなベテラン歌手に審査員の出番が回ってきてもいいのに』と考えているようです。
実際、2012年にアメリカン・アイドルの審査員でジェニファー・ロペスとスティーブン・タイラーが降板した時、アレサは次の審査員に立候補 しました。マライア・キャリーが1人目の審査員に決まり、2人目の候補としても挙がっていたようです。ただ、収録地のロサンゼルスまで デトロイトから毎週来るのがネックだったのか、2人目の審査員はニッキー・ミナージュに決まりました。

【参考文献】
Aretha Franklin Sparkle (日)
アレサ・フランクリン、体調不良で半年間すべての予定をキャンセル
アレサ・フランクリン、それでも自分の役にハル・ベリーを熱望
「38kg痩せた」アレサ・フランクリン、ダイエット法に疑問の声も
アレサ・フランクリン新作、R.ケリーは不参加に
アレサ・フランクリン早くも婚約解消!
アレサ・フランクリン、伝記映画の製作を中断
アレサ・フランクリン新作はデンジャー・マウスとベイビーフェイスがプロデュース
Rock On The Net (アレサ年表: 英語)




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